福島県の南相馬市(みなみそうまし)から3月17日、東日本大震災の被害にあい福島原発の放射能を恐れ、20〜30キロ圏内の人たち30数人が千葉県流山市に自主避難してきました。流山市生活と健康を守る会の妹尾七重(せのおななえ)会長が、この春、中学1年と小学5年、小学1年の3人の子を持つ若いご夫婦の相談にのっています。
「私たちは南相馬の町に愛着があり、後ろ髪を引かれる思いで出て来ました。夫は地元で働き、消防団の一員です。私も仕事をしていました。町起こしや、夫婦でPTA・子ども会活動もしていました。仕事でつながった人たちの安否確認など、やりたいことはいっぱいありました」とKさん(30代)。
「でも、お腹には赤ちゃんがいて、知り合いから、『原発で働いている甥が遺書を書いたといっている。もうあぶないからすぐ逃げなさい』と言われ、15日の夜中に、子ども3人はパジャマのまま、妹の車を借りて避難しました」。
6年前に家建てたばかり
夫のTさん(40代)は「家を6年前に建て、ローンの一部繰上(くりあ)げ返済したところで、手持ち金はほとんどありません。仕事も失いました」。
荷物持たず途中で下着買う
荷物も持たず、途中で下着を買うほどでした。小学1年生になる長男のランドセルも、姉妹が入っているクラブで使う楽器も置いたまま。
長女は6年生のクラスの全員無事を知り喜びました。でも、翌12日に予定していたクラブの後輩とのお別れ会ができませんでした。子どもたちは「元の家にいつ帰れるの」と不安を隠せません。
長女の今ほしいものは、「遊びながら勉強できるもの」。Kさんは「頭がまだ回らない」と言いながら、「アルバムを取りに行きたい」「家に残してきた生ゴミが気になる」と話していました。
4月1日には生活保護が受理され、市内に引っ越して子どもたちの入学手続きも終わり、夫妻は少しほっとしています。
被災者の声に耳傾けて
千葉県流山市生活と健康を守る会・会長 妹尾七重
流山市は避難者に対し、当初、福祉会館での畳の部屋とお風呂、毛布を提供するだけでした。「守る会」は3月20日の役員会で避難者がいることを知り、すぐ訪問。「温かい食事が食べたい」「4月から学校はどうなるのか」「放射能の影響が心配」「手持ち金も少ないし、失業した。先行きが不安」などの声が寄せられました。すぐに地域の人や元弁当屋さんが、ボランティアで食事を用意し喜ばれました。
21日には地元のスーパーなどにも支援を要請し、市役所に避難所の改善などを「会」として申し入れました。共産党市議団の協力を得て、個室のある会館への移動や、放射能測定、温かな食事、布団、自転車も用意されるなど、要求が実現しました。また、23日に全生連の厚生労働省との交渉に代表を送りました。
Tさんは生活保護の申請をしましたが、千葉県では避難所から申請できないと、その不当性を追及すると共に、アパートを探し生活保護は受理されました。一緒に頑張ると入会しました。
(2011年4月17日号「守る新聞」) |