4月23日から25日、全生連の松岡恒雄会長と前田美津恵事務局次長が被災地の岩手県と福島県に入りました。22日、福島第1原発から20キロメートル以上離れた地域で、事故発生から1年間に被曝(ひばく)量が20ミリシーベルトに達する恐れのある地域が「計画的避難区域」に指定されました。住民は5月中に出て行かなければなりません。伊達郡(だてぐん)飯舘村(全村指定)と川俣町(一部指定)の会員の声を聞きました。
昨年、「日本一美しい村」の1つに指定された飯舘村で、15頭の牛を育てている高橋民子さん(63)は、「牛舎のシャッターを下ろして密閉し、牛は外には出さない。相馬から買っていた飼料の一部は入らなくなった。昨年末に70万円で種牛を1頭買ったばかりなのに」と話します。
「23歳の娘と1歳の孫のために福島市内でアパートを借り、両親はスキー場のホテルの避難所に申し込んだ。家族がバラバラになる。私はいられる間はここにいたい」という高橋さん。「4頭くらいは鑑定してもらって市場に出そうと思っているが、大事に育ててきた牛は殺せない。牛も安全なところに移してほしい」というのが切実な願いです。
補償されても職を失う避難先は自分で探せと
川俣生活と健康を守る会会長の菅野福明(とみあき)さん(54)は、300頭の豚を育てています。「障害をもつ姉もいて、簡単には避難できない。東京電力から100万円の仮払い、国35万円・県5万円の義援金が支払われることになったが、避難したら職も失う。これからどうしたらいいのか」と声をつまらせます。
川俣町山木屋(やまきや)に住む渡辺福七さん(53)のビニールハウスでは、トルコキキョウの苗が並んでいます。「長い間、苦労して山木屋ブランドのトルコキキョウを育ててきた。今年は花が咲いても市場には出せない。補償はどうなるのか。『計画的避難』というが、川俣町は浪江町や双葉町の避難者を受けいれていて、空家も少ない。うちは家族が多いが、避難先は自分で探すしかない」と、やるせない気持ちをぶつけます。
一度作るのをやめたら土を元に戻すのは大変
川俣町で避難区域の浪江町から1キロの地域で葉タバコを作っている佐藤俊枝さん(47)は、「今年は作れないし、来年もわからない。一度作るのをやめたら、土地を元に戻すのは大変」と訴えます。
「長女(29)が5月12日に出産予定。2歳の孫もいる。子どもたちはこれからの人だから、放射線被害が一番心配」です。
飯舘村と川俣町の農民たちは今、「どこに避難しろというのか」という、とまどいと怒りでいっぱいです。
(2011年5月15日号「守る新聞」) |