5月6日、国民平和大行進が東京・夢の島公園の第五福竜丸展示館前からスタートしました。平和行進では、「核兵器のない世界を」と訴え広島や長崎まで歩きます。長崎市生活と健康を守る会の被爆者・加藤康幸さんからも手記が寄せられました。
国民平和大行進は、1958年に広島から東京まで核兵器廃絶を訴えながら行進をしたのが始まりです。
それ以来53年間、雨の日も風の日も休まずに目的地まで、全ての都道府県と7割を超える地方自治体を通過しながら行進が続けられています。
出発集会で原発事故の実態告発
5月6日、東京・夢の島の出発集会では、主催者の挨拶や「通し行進者」からの決意などが話されました。福島第1原子力発電所の近くに住む参加者は、「原発と人間は共存できない。放射能汚染によって農作業ができなくなってしまった。原発をなくしていきたい」と決意表明をしました。
集会後、江東生活と健康を守る会の仲間たちは「核兵器をなくそう」「原発から自然エネルギーへの転換を」「憲法9条を守れ!」「米軍の思いやり予算を震災対策にまわせ」などを訴えながら、元気よく行進しました。
リレー旗が次々と引き継がれていく
5月7日は雨に降られながらも、東京・港区立芝公園から歩き始めました。
品川生活と健康を守る会から大田生活と健康を守る会へリレー旗が手渡され、この日の終着地点である神奈川県の川崎市役所では川崎生活と健康を守る会へとリレー旗が無事引き継がれました。
参加した東京生存権裁判の原告である大田生活と健康を守る会の榊原(さかきばら)芳治(よしじ)さん(77)は「ほぼ毎年参加している。大震災による世の中の自粛(じしゅく)ムードに負けないで頑張りたい」と話されました。
原発事故に怒りこみ上げる
平和行進に一歩でも参加したい
長崎市小浦班 加藤康幸(84)
私は1945年8月9日、長崎の爆心地から約4km地点で被曝しました。今も呼吸やひざの関節などに病気があり、歩くのがきついです。
しかし、2011年の国民平和大行進には、1歩でも2歩でもいいので参加したいです。
原爆投下後の状況そっくり
テレビや新聞で東日本大震災によって発生した大津波の被害が映し出されているのを観て、原爆が落ちた後の状況にそっくりなのに驚きました。さらに、原発事故にともなう放射能汚染と風評被害が、被災地と被災者に大変な苦しみを与えています。悲しみと怒りがこみ上げてきました。
自然エネルギーで電力確保を進めて
国と東京電力は、被災者への補償と生活支援を急いでほしい。放射能に被爆した人の健康管理を継続するために「原発被害者手帳」をつくってほしいです。
「安全神話」が崩壊(ほうかい)した原発そのものをなくしてほしい。そして自然エネルギーによる電力確保を進めてほしいと願っています。
(2011年5月22日号「守る新聞」) |