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原発事故で今もバラバラ 福島避難家族小林さん一家

 阿武隈山脈が南北に連なる福島県浜通り。その北部に位置する飯舘村は自然に恵まれ、高原ならではの冷涼な気候にある村でした。しかし東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故は、この村を含む多くの人から故郷を奪いました。飯舘村で農業を営み暮らしていた会員の小林さん一家5人は避難で離ればなれの生活となりました。現在、小林さん夫婦が暮らす福島県喜多方市を訪ねました。(堺田三和記者)

事故から2年半決断迫られる日々

 喜多方駅から車で10分。周囲を見渡すと広大な田んぼが山裾に広がっています。小林美恵子さん(57)と夫の稔さん(61)は、この地で昨年4月から暮らしています。
 5人家族だった小林さんの家族。稔さんの両親信一さんとトヨ子さん(ともに83)は福島市飯野町、長男の司(おさむ)さん(27)は宮城県蔵王町とそれぞれが100キロ〜200キロ離れて、生活をしています。
地図 一家は稔さんで3代目となる農家、飯舘村では11ヘクタールの田で米を作り、飯舘ブランドで知られる牛20数頭ほどを飼育。またトヨ子さんがホウレン草を出荷し、司さんは牛の飼育に携わる村の公社に勤めていました。
 原発事故が起きて、近隣の町には避難指示が出されましたが、30キロ離れた飯舘村では「あまり外に出ないように」という指示。また国から派遣された大学教授は「放射能は大丈夫」と講演しました。しかし、飲料水から高濃度の放射線が測定され、飲めなくなるなど不安は高まっていました。
 1か月後、飯舘村にも避難指示が出されます。それからは「あれよ、あれよの毎日」。通い慣れた病院を変えたくない信一さんとトヨ子さんは、村役場が移転した飯野町の仮設住宅に入りました。
 稔さん、美恵子さん、司さんは、牛10頭ほどを千葉県の親せきの所で引き取ってもらったのち、残りの牛たちを連れ、宮城県蔵王町へと移りました。「もう米作りはできないか…」と諦めていた稔さんに、村の知人から特産のおこし酒が消えてしまうと相談がありました。それをきっかけに稔さんは喜多方市へ移り、米作りの経験を生かして、おこし酒の酒米作りを決意しました。

どこで暮らしても生活できる復興を

 「村の農家で、うちのように仕事が出来ているのは1割です。多くの人が仕事を失った状態」と美恵子さんは声を落とします。また仮設住宅で暮らす人々のことも心配だと言います。
 当初2年で終わるはずの環境省の除染作業は、残り半年で進ちょく状況3%と進んでいません。こうした中、ただでさえ壁がベニヤ板と隣に気を使う仮設住宅の暮らしに加え、村に帰れる見通しが立たたないことから睡眠薬が手放せなくなった人が多いといいます。
 今年8月、美恵子さんは全生連の中央交渉に参加し、国に現状を訴えました。参加して、感じたのは「伝えないと国は分からない」ということ。
 美恵子さんは「復興を机の上だけで考えないで、一人一人の声を聞いて、考えてほしい」と話します。今年6月、司さんは50頭の牛が飼育できる牛舎を建てました。今後、生計を立てていくために必要な投資。
 けれど、こうした建設費や離れた家族同士に会いに行くためのガソリン代は原則、自己負担です。
 「親は子どものことを一番に思っている。本音を言えば、元のように5人で暮らしたいけれど、そうもいかない。村に戻りたい人、戻らない人がいると思うけれど、どこで暮らしても生活できるような復興を」と美恵子さんは願います。

(2013年10月13日号「守る新聞」)

 
   
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