生活扶助費が段階的に下げられ、今月から生活保護費の家賃にあたる「住宅扶助」の上限額がほとんどの世帯で引き下げられました。保護利用者は、消費税増税も加えた三重苦に悲鳴を上げています。政府は「憲法25条」をどのようにとらえているのでしょうか。NPO法人ほっとプラス代表理事・藤田孝典さん(社会福祉士)が寄稿してくださいましたので紹介します。
年間約300人から相談
私はさいたま市にあるNPO法人ほっとプラスという団体で年間約300人の生活困窮者の相談を受けています。若者から高齢者まで、老若男女、実にさまざまな生活課題を抱えて相談に来られます。多くの相談者に共通するのは、「健康で文化的な生活」を営める状態ではないということです。
例えば、借金に苦しんでいる人、所得が低いために治療をやめている人、家賃滞納をしている人、低年金で食費を抑えている人。とても先進国で暮らす国民生活とはかけ離れた姿がそこにはあるように思います。
希望忘れ何かに追われ…
生活上の不安を抱え、明日への希望を忘れ、何かに追われながら、日々生きることに精いっぱいな現状にある方たちがいます。これは本人の努力が足りないから生活課題を抱えるというものではなく、社会構造の問題があることを忘れてはいけないように思います。
社会保障や生活支援、社会システムの不備が人々に苦難を強いています。資本主義社会では、いつの時期にも必ず貧困に苦しむ人がいます。社会の宿命ともいえます。だから、その人々に対しては社会的な手当を行い、健康で文化的な生活を保障するという原理を追求します。そうしなければ、社会が不安定化し、さらなる生活不安が国民全体を覆うからです。
忘れられる社会保障原理
しかし、この社会保障原理はもはや国民全体の中で、忘れ去られようとしています。「財源が足りないから我慢するのは仕方がない」「みんな低賃金で我慢しているのだから要求するな」という「欲しがりません。勝つまでは」という戦時中の標語のように、権利が抑制される雰囲気があります。
1950年代後半に朝日茂という人がいました。彼は結核の病気があり、生活保護を利用していました。
入院中の自分の生活はあまりにも苦しく、人間らしい暮らしができていないと、生存権裁判を起こしたのです。
彼は「人間はただ食べて寝て生きる動物ではない」と訴えます。本も読む、映画も観る、友人と語り合う、旅行もする、時にはおいしい物も食べる。それらの生活を国は保障しているのかと―。
権利は闘う者の手の中に
この声こそ現代の私たちに重要なメッセージではないでしょうか。そして、「権利は闘う者の手の中にある」と生存権裁判を支援する過程で生まれた言葉の意味を再考する時期に来ていると思います。
いま生活保護基準が引き下げられる中で、また第二の朝日訴訟が始まっています。朝日茂も私も皆さんも社会的に弱い立場です。しかし、だから無力であるわけではありません。一緒に声をあげながら、集団を構成して、大きな力にしていきたいものです。
(ふじた・たかのり=32)
首都圏で生活困窮者支援を行うソーシャルワーカー。NPO法人ほっとプラス代表理事。聖学院大学人間福祉学部客員准教授。反貧困ネットワーク埼玉代表。ブラック企業対策プロジェクト共同代表。厚生労働省社会保障審議会特別部会委員。著書に『下流老人 一億総老後崩壊の衝撃』(朝日新聞出版2015)、『ひとりも殺させない』(堀之内出版2013)など多数。
(2015年7月19日号「守る新聞」) |