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夫からの宿題 「核兵器は二度と使ってはならない」 広島市中区 牧野サヨ子(86)

 8月15日は72回目の終戦記念日。広島市の牧野サヨ子さんの戦争体験を紹介します。

山口、広島、東京…

戦前は各地を点々と

 私は満州事変勃発の年(1931〈昭和6〉年)3月10日生まれ、正真正銘の戦中派です。父の病気で事業が駄目になり、今の北朝鮮から父方の祖父の家がある山口県田布施町に引っ越し。小学校は広島市で小学2年生1学期まで。その後、山口県岩国市へ。高等女学校は母方の祖父の援助で東京の学校に入り1年が過ぎたとき、妹の疎開とあわせて山口県岩国市錦帯橋(きんたいきょう)近くへと越してきました。
 2年に編入した岩国高女では、風船爆弾用和紙の原料楮(こうぞ)の精選作業は軍歌漬けでした。
 45年8月15日、正午、帰宅途中に聞いた玉音放送は大人たち様子から終戦の大詔(たいしょう)(注)と知り、今夜から点灯できると喜びました。が、灯火管制廃止は8月20日でした。
〈注 大詔=天皇が国民に告げる言葉〉

戦争遂行への統制

代用食、石炭、衣料まで

 戦争遂行のため統制は各分野に及び、39(昭和14)年米穀配給統制法、40(同15)年石炭、石油に始まった統制は米穀に代わる代用食(ダイコン・カボチャ・ダイズ)、末期にはコウリャンにまで。疎開までいた東京では、雑炊食堂に配給切符持参で行列。調味料、衣料、乗車券、木炭、タキギ、魚、煙草、マッチも。ダイコンの葉を捨てる人に、「おばちゃん、ちょうだい」の私でした。
 英語は敵性語となり、学校教育では、ドミソが「ハホト」に、絶対音感教育は厳しかった。編入した女学校には既に音楽教師は在職せず、式典の際は、私が、君が代・海行かばの伴奏。歌詞よりもグランドピアノが弾ける喜びだけでした。

原爆投下は岩国で

「夫」は3.5キロ地点で被爆

 45(同20)年8月6日8時15分。作業開始号令と共に、東南方向のガラス窓が光りドーン。岩国は爆心地から40キロメートル地点だから、広島の話の比ではなかった。
その時、22年前に66歳で病死した夫は、爆心地から3・5キロの南観音の旭兵器で大砲の弾を磨いていました。県立中学4年生で勤労動員中、倒壊建物から脱出。燃え盛る市の中心部を避け、西から北へ、渡し舟で東区に夕刻にたどり着きました。その足で同校1年の従弟(いとこ)を探しに学校へ。翌日、教室内に等間隔に並ぶ遺灰の中から眼鏡、サック発見。形見としました。

共に中学校教員に

被爆の影響を生涯案じ

 夫は、母に内緒で高等師範学校を受験し合格。奨学金返済不要の公立中学に就職。
私は29歳で夫を亡くした母の勧めで教員免許を取得して、広島市中区の幟町中学に就職。比治山麓に住んでいた共通の先生を訪問した後、「被爆者だがいいか」と言われ、結婚へ。今、同居の孫が22歳となり同年齢です。生涯、被爆の影響を案じていた夫。
 私には「あの時の死臭は被爆者でないとわからんだった」。「核兵器は二度と使ってはならない」と語っていました。重い宿題をもらっている私です。


 「きのこ雲」1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分。世界で最初の原子爆弾が広島に投下されました。投下から43秒後、地上約600メートルの上空で閃光(せんこう)を放って炸裂。1秒後には最大直径280メートルとなり、地表面の温度は3000〜4000度に到達。12月末までに約14万人が死亡したと推計されています。(米軍撮影、広島平和記念資料館提供)

(2017年8月13日号「守る新聞」)

 
   
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