2011年3月11日
東日本大震災から10年目へ
暮らしを変えた原発
福島県川俣町
2011年3月11日、東日本大震災と東京電力福島第一原発の爆発から、10年目に入りました。3月21日、福島県川俣町山木屋地区の会員を尋ねました。川俣町は福島原発のある大熊町、近隣の双葉町、浪江町の北西に位置し、飯舘村の隣。福島駅から車で30分くらいのところで、トルコキキョウの生産が盛んです。(前田美津恵記者)
当たり前の暮らし
村上正子さん(66)
村上正子さんはトルコキキョウのハウス栽培をし、3月から9月にかけて苗植えから出荷までの工程を行います。夫の仁さん(74)は工場に勤めながらハウス栽培を一緒に行っています。
正子さんは「当たり前の暮らしがどんなにいいか、しみじみと感じる」と震災後を振り返ります。
そして「除染が進み、帰宅可能になった頃、避難先で家を建てた人もいましたが、年齢的にも町での生活はできないし、続けてきたトルコキキョウのブランドを忘れられるのはいやだ」と、ハウスの回りの除染を優先的にしてもらい、5年ほど前に帰還しました。
困っていることは、バスが通らず医者へも自分の車で行くこと、収穫と出荷で忙しいときに手伝ってもらえる若い人がいないこと。
「娘は養子縁組して農業を継ぐつもりでいたが、『ごめんね。悪いけど子どもがいるから』と泣き泣き仙台へ行った。夫婦で頑張れるところまで頑張ります」
地域のつながりを
渡辺福七さん(62)
渡辺福七さん、まゆみさん(54)夫妻は、トルコキキョウを現在は7棟のハウスで育てています。
原発爆発後の3月14から15日にかけて避難。初めはまゆみさんの実家、そして叔母の家に1か月お世話になりました。子どもは学生でした。県営住宅に当たってもエレベーターがないので、当時92歳の父は4階までは無理と借り上げ住宅へ。
山木屋に戻ってきても、息子夫婦は福島市にある復興住宅に住み、トルコキキョウの栽培で忙しい時に泊まり込んで手伝う生活です。学校が休校ということもあり、赤ちゃんを含め3人の子どもがにぎやかでした。
福七さんは「あっという間に9年が過ぎた。若いころ原発反対運動をしていた。安全だとあれだけ言っていたのに、メルトダウン。国と東電の責任は重い」と話します。そして、「地域のつながりを元に戻してほしい」と。戻ってくるのは年配の人たち。若い人は帰りたくないと戻ってこない。
山木屋に必ず戻る
菅野福明さん(63)
菅野福明(かんのとみあき)さんは妻と福島市松川に住んでいます。菅野さんの両親が戦後、山木屋に開拓に入り、農業をしながらブタやウシを飼っていました。
その中から菅野さんは養豚をしようと1983年から豚舎や堆肥舎を建て、多い時で1600頭を飼い、150キロから160キロに太らせて郡山(こおりやま)や東京に出荷していました。
幸いにも豚舎内は汚染されていなかったので、1頭1頭検査をしてすべてを出荷することができました。地震の時、子どもは小学4年、6年、中学2年生で子育て真っ最中。今は3人とも県外へ就職したり専門学校へ行っています。
菅野さんは、「養豚は借金の返済が終わり、これからという時に大震災だった。当時は養豚をあきらめきれなかった。けれど、再起するには億の単位の資金が必要で無理なこと」「今住んでいる新興住宅の宅地は100坪、家は50坪、車は3台でいっぱいになる。山木屋の広い土地と自然の中に戻りたい。自分が生活できるくらいの農業をして暮らしていきたい」と希望を語ります。
(2020年4月5日号「守る新聞」) |