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福島飯舘村

東日本大震災・原発事故から10年

終わらない被ばくと見えない復興

 2011年3月11日に発生した東日本大震災から10年がたちました。しかし、いまだに震災は終わっていません。福島県飯舘村では福島第一原子力発電所の事故で漏れた放射性物質の拡散により、避難を余儀なくされました。一部を除き避難指示は解除されましたが、国などによる不十分な除染やごまかしの年間被ばく量など、現在も元の生活に戻る見通しが立っていません。飯舘村生活と健康を守る会の佐藤八郎事務局長に会員の現状と村に残り10年間、被ばくの調査・計測を行っている伊藤延由(のぶよし)さんについて聞きました。

会員の苦労とストレス

 飯舘村の仲間たちは、避難指示が他市町村より遅かったため、高濃度の放射能により被ばくし、その後の避難で先祖代々築き上げた財産・生活・コミュニティーなどを置いて「故郷」を離れました。飯舘村は、海に山にと60分以内で行ける「緑豊かな、自然の宝庫(山菜・キノコなど)」でした。
 村内では、放射性物質を除去し隔離するとして、莫大な国費をかけての「除染作業」が、事故2年目から開始されました(高濃度の所は今も続いています)。
 しかし、除染(放射性物質の除去と隔離)のでたらめとごまかし・家屋の除染をしたのに解体と、その年その年で「国・東電の言いなり」に村の施策が変更されました。
 その実態を見て知りながらの避難生活では、放射線をあびた人、持参した物も「毒物扱い」され、避難先での生活では、子ども・大人・高齢者もべっ視(差別)されて、回りの人たちと会うこと、飯舘村出身を隠して話すことも大変で、初体験のことも多く、何重ものストレスから、いろいろな病気で通院する人も増えました。

大変な守る会の活動

 会員の移住地が分からないので、元の住所へ郵送したり、年2〜3回の集会、税申告運動でも、移住した市町村別に集会を行ったりと「仲間同士さえも寄り添えない」活動になりました。
 そのような状況の中でしたが、全国からの支援もあり、会う努力をしながら語り合い、「こんな時だから守る会」と確認し合いました。
 この間、原発事故前に飯舘村に移住してきた、新潟県出身の伊藤延由さん(77)に、守る会の集まりなどで放射性物質の影響などを報告してもらうなど、故郷の自然界の変化と身体や食べ物などの実態を学びました。
 全国生活と健康を守る会連合会の中央行動では、伊藤さんの視察・講演などでの「実態資料」を使い交渉しました。


伊藤 延由さん

飯舘村の実態を記録  
10年にわたり線量など計測

 伊藤さんは2009年11月、農業研修所「いいたてふぁーむ」の管理人兼百姓見習いに就き、飯舘村に住み始めました。
 原発事故直後から、来村し線量測定を行ってきた京都大学複合原子力科学研究所の今中哲二さんから放射能測定の指導を受け、飯舘村に降り積もった放射性物質の変動に興味を持ち、現在まで測定を続けています。
 守る会とは、会で放射能の影響について現地のデータを取ろうとなった時に、伊藤さんが飯舘村の線量を測定をしていることを知っていたので、連絡を取ったところからで、伊藤さんの測定したデータは、国との交渉などにも使わせてもらっています。また、3年ほど前から、守る会の集まりなどで、飯舘村の実態を報告をしてもらっていて、昨年入会、中央行動にも参加してもらいました。
 伊藤さんは10年間の飯舘村を調査計測し、実態周知に努力しています。

(2021年3月14日号「守る新聞」)

 
   
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